〒526-0001
滋賀県長浜市国友町 534番地
TEL&FAX 0749-62-1250

一般 300円(240円)
小・中生 150円(120円)
※()は団体料金20名以上
開館時間
午前9時〜午後5時
(入館は午後4時30分まで)
年中無休
(12月28日〜1月3日のみ休館)
天文12年(1543)8月25日、種子島の門倉岬に一艘の中国船が嵐のために漂着した。そこに乗っていたポルトガル人から、初めて日本に2挺の鉄砲が伝えられる。以降、国友・堺・根来など各地で鉄砲が作られた。鉄砲の伝来と共に新しい文化や特にネジの開発によって、大きく日本の歴史を変えた。
元亀元年(1570)姉川合戦で鉄砲は使用したが、天正3年(1575)の「長篠の戦い」では、3,000挺の鉄砲が使用され内500挺は、信長より受注を受けた国友鉄砲が使われ、信長の勝利となり、以後戦略が変わった。鍛冶師は、慶長18年(1613)1貫目・150匁・120匁玉筒、翌年には、10匁・6匁玉筒を多量に作り家康に納めた。その1年後、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」では大筒を使い、「夏の陣」は中筒・小筒を使い家康の大勝利となり、徳川250年の時代が来た。
種子島に伝来した鉄砲は、早くも翌年から鉄砲を作り始めた。次朗助のネジの開発は大量の鉄砲の製造に成功し、鉄砲の最盛期には、70軒の鍛冶屋と500人を越す職人がいた。鉄砲は、銃身を作る「鍛冶師」銃床を作る「台師」と引金や火ばさみ部分(カラクリ)を作る「金具師」の3人(分業)で1挺の鉄砲が出来る。また、彼らは、年寄・年寄脇・平鍛冶と組織をつくり大量の鉄砲の注文に対応した。
鉄砲は口径によって細筒(小筒)・中筒・大筒・短筒・脇差鉄砲等幕末まで制作し、現存する火縄銃の大半は江戸時代中期から後期のものである。
鉄砲の規格は、10匁・20匁玉筒という。10匁(鉛玉直径18.35mm)玉筒は、銃口径18.7mmの鉄砲をいう。
銃身は、真金を使い瓦金を丸くし(荒巻)更に葛巻(巻張り工法)でより強硬な銃身に仕上げた。素筒を八角の形にし、ネジを切り火皿・目当を付けて完成。銃床は樫の木を使い銃身・カラクリに合わせて作り上げる。中でも「さくじょう」(玉を込める棒)の穴をあける工法には苦労した。鉄は、播磨(兵庫県)「千種」や出雲の「たらら」から運び使用した。
東洋のエジソン国友一貫斎は、自ら作り上げた反射望遠鏡(1832)で天体観測を行い、天保7年(1839)の月面観測図は精度が高く、金星・木星等に土星の環と一つの惑星、同年8月15日の太陽の黒点観測図も精度の高い記録であり、また1年2ヶ月の連続観測に於いて太陽の自転に気付く。現存する4台の望遠鏡は、今も鮮明に見える。一貫斎天保11年(1840)63才没。遠州流の茶人辻宗範は、遠州流茶道家元再興に当たり「返し伝授」を行う一方、茶の湯を楽しみ多くの書画を残した。このように国友は、鉄砲という伝統産業から新しい技術者や文化人が活躍する町となった。

トップ

展示紹介

アクセス

リンク

Copyright(C) 国友鉄砲の里資料館 All rights reserved.